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右へ曲がる


三つ目の交差点を、右へと歩いた。ブゥンという虫の羽音が髪を撫でる。

きゃっ!

思わず声が漏れてしまった。いつもと変わらない道なのに、奇妙な匂いと音が段々と迫る。どうしても、それと鉢合わせしてしまうのではないかと考えてしまう自分がいた。

ごくりと唾を飲み込むことさえ出来ない。恐怖と比して、心音が段々大きく、速くなる。


まずい。

そう思った時、


キーン


という耳鳴り。


途端に雨の音が遠のく。そんな中で、一瞬、聞き覚えのある声が聴こえた。

「大好きだよ。僕とずっとー」



目を覚ますと、私は自室のソファーでうつぶせになっていた。窓から赤い光が差し込んでいる。どうやら丸一日気絶していた様だった。

いたたたた。

無理な体勢で寝ていたせいか、身体中が軋む。それにしても、昨日の出来事は何だったのだろうか。


あれ?

ふと違和感に気が付く。服が汚れていないのだ。昨日、雨の中倒れた筈なのに。それに、嗅いだことのある匂い、聴いたことのある声。


懐かしい……そうか。


あれは、私の子だ。


二十数年前の今日以来、それきり会っていない息子。何も抵抗出来ず、私をじっと見つめていた姿を鮮明に覚えている。今となっては、あんな酷い仕打ちをしてしまった自分が許せない。


母として、それでも駄目なら一人の人間として、またあの子に会いたい。

……何て、傲慢極まりない。

「俺は、嬉しかったよ」

長い間積もっていた行き場の無い愛情が胸一杯に込み上げてきた。

視界が歪む。

駄目だ、今日は仕事があるのだ。気を取り直して、新聞へと手を伸ばす。今日も夜は雨か……。記事を読んでいくと、こう書かれた見出しが目に留まった。


「通り魔か? 路地裏で謎の死」


最近、別の場所で通り魔が出たという話があったが、この路地迄来ていたとは、怖いものだ。もしかすると、昨夜のカサカサという音は、こいつが私を襲う瞬間を狙っていた時のものかもしれない。

背筋が凍る思いだった。


昨夜気を失ったのはこの通り魔のせいなのだろうか。そうならば、とっくに殺されているのでは……。


そう考えていると、棚に飾っている唯一の家族写真がパタン、と倒れた。


もしかして息子が守ってくれたのか?とすると息子は……いやいや、写真が倒れたのは風が吹いたせいだろう。そうだ、息子はまだこの世界のどこかで笑っているに違いない。私は息子と出会える日の為に、生きるんだ。そして、この写真の様に、家の前で家族三人揃って写真を撮ろう。


喜怒哀楽が押し寄せながらも、改めてそう決意し、倒れてしまった写真を元に戻した。

今日は私の誕生日。

お祝いとして買った、銀色に光るそれをケースごと鞄へ入れる。あの子への、せめてものプレゼントだ。濡れた頬、心のわだかまりをも冷たい水で洗い流し、眩しい日差しの中、私は仕事へ向かった。

エンド2:プレゼント





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